沖縄の海で水着を着て泳ぐのは外国人か本土の観光客。

 沖縄には水着が売っていないので テイファ (冗談)みんなシャツを着て泳ぐ。

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 と言うのは、テイファ(冗談)で、実は沖縄に降り注ぐ、紫外線の量は、何と湘南海岸の十倍と言われている。したがって、肌をさらしていると日焼けして、夜もろくに眠れなくなる。(火傷の痛さで)

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 その他にハブクラゲに刺されない様に肌を保護するためだ、この様な事柄は、外国人や、本土の観光客は、ご存知ない。沖縄の海の危険生物で、当ブログの初期に紹介した通り、ハブクラゲの触手は、2~3mと長い、青い防御ネットに、絡まったとしても、触手をネットから出しているはず、その為、青いネットの内側に黄色いブイで注意している。(これ以上寄るな と)刺されたら、幼児はホボ助からないだろう。

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 この様な海の危険生物に関しては、各ホテル、旅館の、ホールに出ているはず、

 他国で命を落とさぬよう注意して見ておこう。(死なない様に)

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 きれいな沖縄の海に来て、見栄えの悪いネット内で泳ぐなんてと思うだろうが、郷に入らば郷に従え、だ。)(特に流れの無い海水浴場には多く住むハブクラゲ

 流れの有る所では良く外国人が流されて救助隊のお世話になっている、日本人より強靭な外国人がだ潮の流れには逆らえない。

夏バテ防止予防の我が家の料理。

 鶏肉の胸肉は脂肪分が少なく、軟らかで、100g当たり、もも肉よりも安く家計には助かる。

 栄養も、もも肉に比べて低カロリーで、筋肉増加につながるたんぱく質も、もも肉よりも3.5gも多く、基礎代謝もアップし、脂肪が燃焼しやすい身体になると言う。

 また疲労回復に効果があると言われる、イミダペプチドが、もも肉より756mgも多く、鶏の胸肉を摂取することで、日常生活の疲れを防止することができると言われる

 さらに脳の活性化改善効果が有ることが判明し、将来認知症の発症を防止する食品と言われる。ダイエットにも良いとか。

 

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 この鳥むね肉はパサパサかんがあり好かないと言われる方、

そこで我が家の調理法。この鶏むね肉を、そのままビニールの袋に入れ、水も油も入れないで鍋の水(ビニール袋内に湯)が入らない様に密閉し、そのまま、鍋又はポットでボイルすす。

 (あまり煮すぎると肉が固くなるので注意)茹で上がったら中に乾燥スライスニンニクを入れ冷ます、ビニール内に出た水分は、旨味汁だから捨てないでそのまま肉と冷やす、

 冷えたら胸肉を取り出し指で肉を細かく(裂きイカの様に)裂きビニール袋に戻し、マース(沖縄の塩)を振り(好みに寄り塩コショウでもよいかも)ビニールの上からよくもみ込み旨味汁と肉が混ざるようにもむ、これで出来上がり。冷やしラーメンの上に乗せたり、サラダの合えたり、色々トッピングして、食すと美味しく,頂けます。そのまま、おつまみにして、食してもパサパサ感なく美味しく頂ける。

沖縄の桜前線もいよいよ南下してきました、

那覇市漫湖公園で、2月8日・9日の二日間、さくらまつり、が開催され、8日(土)に、見物に行って来ました。

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 沖縄の桜は、本土のソメイヨシノ桜と違い大きな桜の木は有りません。緋寒桜なので色も濃いめのピンク色です。

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 本土のソメイヨシノ桜は約一週間ではらはらと花びらが散り始めますが、緋寒桜は約二週間は咲いています。

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 沖縄の緋寒桜の花の散り方は、花の付け根からポロリと落ちてきます。

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 沖縄では桜の木の下での宴会は有りません。何故かとジロなりに考えるに、桜の木の下で、お花見しながら酒を飲んでるところに、みつを舐めている蜂と共に、花がポトリと落ちてきて、盃にピちゃんと飛び込み酒が顔にはねたりしたのでは、かなわない。

 また猛毒の、ハブ、は夜行性だ、騒ぎに浮かれて出て来たのでは、絵にもならない。

笑い事ではない。

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 漫湖公園内にも、この様な、ハブが出ないとも限らない、コーション看板があちこちに建ててある。

 

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 漫湖とは、那覇市国場川と、豊見城市の饒波(のは)川の合流地点の広大な干潟地点を「漫湖」といいます。この写真は海の潮が満ちて来た時です。

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 この写真は干潮時の漫湖の写真です。沢山の渡り鳥が飛来して羽をやすめる場所でやがて遠き外国に飛び立つ準備をする場所です。

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 漫湖公園は市民の憩いの場所で、ジョギングコース、テニスコート、子供広場、野球場、グランドゴルフ、散歩コース、くつろぎ広場、等々有り、ヤシの実も実っています。 ある日公園スタッフに、このヤシの実、落ちた場合どうなのと聞いたら、拾った人の物で。と言っていたので、しばらくヤシの実を見上げてにらんでいました。(笑)

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 沖縄では、「まんこ」、は公用語なのです。沖縄の新聞にも、広告にも書かれ、沖縄の放送局でも放送されます、然らば女性の陰部は、なんというか? 

 ほうほうと感心している貴方、変なとこで関心していると、沖縄の女性から、ケリが飛んできますよ。

幕末に生きた沖縄ゆかりの「 ジョン万次郎」

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 ジョン万次郎とは、江戸末期の幕臣で、四国は高知県(土佐)の出身で、本名は、中浜万次郎。1841年、友人数人と漁に出て遭難、アメリカの、ジョン船長の捕鯨船に救助され、ジョン船長にみこまれアメリカで、高等教育を受け、その10年後の1851年に帰国するが、当時の日本は鎖国状態、そこで琉球国(現、沖縄県糸満市)の、大度浜海岸にひそかに上陸、

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 糸満の大度浜に上陸後は、薩摩藩の役人に連行され、(現)豊見城市翁長の高安家に預けられ、約5か月間過ごした、

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 翁長の親雲上(オナガのベーチュン、=士族)であった高安家での外出は禁じられていたが、夜は地元の若者と交流し、綱引きなどにも参加したといわれる。

 鎖国の日本に帰国した万次郎たちは、長期に渡り尋問を受けたが、何とか土佐に帰ることが許された。また、ペリーの来航によって、アメリカの知識の重要性が増し、1853年、幕府に招かれ、幕末の外交にかつやくし、1860年に遣米使節団の一員として「咸臨丸」に乗船している。

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 2002年ジョン万次郎の子孫が来沖し、豊見城市翁長の、高安家を訪問、このヒンプンの前で151年の年月をこえて交流したそうです。

 

怪力、保栄茂(ビン)タルチー

 糸満市の束辺名(ツカヘンナ)に巨大な石の灰皿が有る。

怪力、保栄茂タルチー(ビンタルチー)の愛用の品と言われている。

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 場所は、糸満市の束辺名公民館の前の藪の奥にありますが、整備されていないので、全然わからず、近くの農家(ハルサー)に聞いたら、わかりずらい所に有るのでと、ご親切に昼食中にも関わらず、中断して案内してくださいました、

 恐縮です。ごめんなさい ありがとう。

 藪の中を、ズカズカと入ってゆくが、ハブが出ないかと、ビクビクしながらついていくと、一か所切り開かれた場所に、ブロックで囲われた、大きな石の、灰皿とやらが置かれていた。

 

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 ブロックの囲いの、てんいたには、昭和52.5月と堀込んである、その年月に整備されたのであろうか、その下には、138kg と見える、石の灰皿の重さなのであろう。

 今でも、毎年、子孫です、と言う娘さんが来訪してお掃除して帰るそうです。

 

 この怪力、保栄茂タルチーに関する、伝説物語が存在する、言われはいくつかあるようですが、ここでは簡単に紹介します、

 昔、束辺名(ツカヘンナ)に、山原(ヤンバル)船がやってきて、薪を、法外な値段で売ろうとした、これに怒った、タルチーが山原船を浜辺に引き上げて、欲深い船頭を懲らしめたことが有った。この武勇伝に、大里村の鬼が力くらべをしようとやって来た。

 鬼は村の娘にタルチーの家を訪ねた、娘は驚いたふうもなく、鬼の金棒を手にして地中深く突き刺した。鬼は金棒を抜こうとしたがどうしても抜けなかった。

 すると娘が「タルチーは、私の兄さんですよ」と言って、金棒をヒョイと引き抜いた。これにはさすがに赤鬼も青くなって逃げかえったという。

 

 
 

鬼餅(ムーチー)の由来

 沖縄では、旧暦の十二月八日は、ムーチーといって「鬼餅」を作ってお祝いをする。

この時期は、一年を通して最も寒い日、(ムチービーサー)と言われている。

 ムーチーの由来については、いろいろ言われている。

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 昔、首里金城に兄妹が住んでいた、兄は乱暴者で、酒を飲んでは喧嘩ばかりしているが、妹は優しい心の持ち主でした。

 ある日妹が、兄さん、もう悪さはしないで、と頼む妹の前で、うるさいと酒壺をたたき割って、どこえ行ったのか、それっきり姿を消してしまった。

 

 兄は、鬼になって、大里の洞穴に住みつき、「大里鬼」と呼ばれ、夜な夜な部落を襲い家畜を盗み食べ、時には、人間までも食べたと言う大変恐れられていた鬼である。

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  やがて妹は、自分が何とかしなければと、説得に大里の洞穴にいきました。

 「兄さん、妹です」。妹は洞穴の前で大声で叫んだ、兄の鬼は何処かえ出かけたのか出てきませんでした。

妹は洞穴の中に、入っていきました。すると、思わず鼻をつく臭いがプンプンしてきた。

 牛や山羊の骨が山積みされており、うわさ通り家畜を盗み食べていたのだ。

 

 しばらくすると、兄が帰って来た。

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 見ると、筋肉りゅうりゅうとして、口は裂け牙がむき出し、目はらんらんと輝き、

赤黒くやけたからだに太い毛がいっぱいおおい、いかに兄妹でも怖くなり、妹は、

反射的に逃げようとしたが、「あっ、妹か何故逃げるか、さあ一緒に肉でも食べよう」

と、兄にエリ首をつかまれて洞穴の中ほどに引っ張られた。妹は利口者であったので、

 

 「兄さん、ちょっと待ってください、外で用をたしてきますから」

しかし兄は逃げるのを警戒して、「ここでやれ」と言った。しかし妹はいくら兄妹でも兄さんの前ではできない、と言うので納得し、そのかわりに妹の手首に縄を結び、その縄の端を兄は捕まえておくことにした。

 

 妹はすぐ外に出てタイミングを考えて縄をほどきその縄を木に結び、一生懸命に逃げた。洞穴の兄は、「遅いな~、何しているのか」と外に出て妹に逃げられたことがわかり、「待て、こらー」と鬼は叫びながら妹の後を追いかけたが、すでに妹は逃げて、いませんでした。

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 数日して、鬼は首里金城の妹の家に向いました。今日は恨みをはらして食べてやろうと、生唾を飲み込みながら行くと、妹は怖い鬼の兄を退治しようと兄さんの好きな餅を作っていた。

 

 鬼に食わす餅には鉄をいれ、自分の食べる餅には普通の餅を作った。そこえ鬼がやって来た。妹は、

  

 「兄さんこないだはすみません。今日はお詫びに兄さんの好きな餅を作りました、沢山あがってください。外の景色でも見ながら食べましょう」と、たくみに外え誘い出し、崖の近くまでおびきよせ、妹は兄の前で、とんきょ、して座り「さあー食べて下さい」と鉄の入った餅を鬼に出した。

 兄はあわててわしづかみにしてがつがつ食べようとした、ところが歯がたたない。

 

 妹はパクパク食べているのに驚き、思わず妹の下の方を見て、

 「お前の下の血をはく口はなにか?」と聞いてきた、妹は頭を働かせて

 

 「上の口は餅をたべるくち、下の口は鬼をかみ殺す口です」と言ったかと思うと。

妹は着物の裾をまくりにじり寄った、鬼は不意を突かれた思いでとびのくや、足を踏み外し崖下に転落、血をはいて死んでしまった。

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 この鬼を退治したのが、旧暦の十二月八日のことでした。

 沖縄ではその日はヤク払いの日として「鬼餅」(ムーチー)をつくってだべます。

 特にその年に子供の生まれた家庭では普通の餅より大きい「力餅」をとくぅて食べます。昔のしきたりでは、旧暦十二月八日のムーチーに正月までの日数を計算して、その日数分の数の餅を天井からつるし、一日一つづつ食べて新年を迎えたのだそうです。

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 沖縄の餅は、もち米の、米粉を、黒糖とか、紅芋とか、南瓜を練りこんで、サンニン(月桃)の葉で包んで、釜で2~30分蒸し上げるのです、本土の様にもち米を蒸して、臼でつくのは、極最近の事ですが、沖縄ではあまり見かけません。

 

  月桃の葉を縛る紐の色で種類の中実が何か種類分けしているようです、

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 金城町、(首里の石畳の途中の)大あかぎの有る兄の墓ともいわれている、「大嶽」

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 同じく金城石畳近くにある、大あかぎの妹の墓と言われている、「小嶽」ここには鬼の角が祭られている、と言われている。

 

 旧暦十二月八日には、妹の小嶽にのみ、ムーチーが供えられる。

玉陵、遺体安置室に置いてある、豪華な石甕(いしがめ)の不思議。

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 王家の墓、玉陵の遺体安置室に豪華な石甕(いしかめとは琉球の骨壺のことです)が安置されてある。

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 これは玉陵資料館に展示されている、玉陵の内部見取り図の模型です。

手前の室が歴代王と王妃の骨壺の室です、その先の室が問題の死体安置所です、琉球時代から、明治そして昭和の初期までは、風葬で死体を、二~三年安置(放置)して骸骨になった頃、前庭に出し、泡盛で洗骨し石甕に収め、それぞれの、甕室に収めたのです。

 奥の甕室が、王子・王女等、王室の家族の甕室、です。

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 問題は、この遺体安置室に置かれている、王の石甕にも匹敵する石甕の謎、蓋には銘も、何も書いてないそうだ。

 資料室には、この件ではジロの見た時点では説明文は見当たらなかった、あとで、ある資料本で知ったのだが。

 

 尚真王の時代、玉城村前川に、玉城仁王(たまぐすくにおう)という評判の占い師がいた、ある年、王子が熱病にかかり、高価な薬もきかず、弱り果てていた。どんな名医でもなおせないことから、臣下の者達は、仁王に占ってもらうことにした。

 すると仁王は、「按司(アジ 豪族のこと)達の王族に対する恨みからくる病です」と言い。すぐに呪いをはねのける祈祷をした。王子はみるみる元気になり全快した。王は喜び、仁王に大時(吉凶占い)役職を与え、首里城下に住まわせた。こうして仁王は木田大時を名のり仕事に励んだ。しかし按司の中には妬む者もいて「木田は迷信たわごとを吐いている」と王に告げ口をしたそこで王は「按司」たちを、納得させるため、木箱の中に一匹の鼠を入れ、数占いをさせた。

 箱を眺めて居た木田は、おもむろに「五匹います」と答えた。王が再度尋ねても、「この首にかけても五匹です」と言い切った。

 王は、「さては詐欺師であったか」と不機嫌になり、やむなく木田を安謝海岸で処刑させた。王は不機嫌のあまり、箱を蹴飛ばした、すると、なんと親鼠と、子鼠が四匹出て来たではないか。親鼠はめすで箱の中で子を産んでいたのだ。

 王は慌てて部下を走らせ処刑の中止を言い渡したが、既に遅し、木田は既に処刑されていて海に流されていた、

 

 王は木田の呪いを恐れて、海岸の小石を三個拾いあげ、石甕に収めて、丁重に、王家の玉陵に葬った。のだと言う伝説です。