旧暦一月廿日(女正月)のジュリ馬

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琉球国時代、琉球国事態で何ら、確たる産業も無くサバニ舟を漕ぎ海外との貿易品に活路を開いていた、

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サバニ舟の乗組員は三人から五人

 琉球船乗りが海外に出かけたのは、チャイナは無論、タイワン、フィリッピンビルマ、インド、までにも航海していた。

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 大海原を航海するにはこんなかんじのサバニなのかもしれない。諸外国に行き来していた時代の琉球の経済は大変潤っていたが、今から350年前の時代、薩摩藩琉球侵攻後、薩摩に海外貿易は、チャイナだけにさせられた為、首里王府の財政は繁追し、中国冊封使一行や中国貿易商人、さらには薩摩奉行役人等の接待のやりくりに逼迫。

 【昔は機械動力が無いから帆船だ、黒潮の流れ(5キロ~10キロの速度の流れで、北上している)に乗り南風を受け、琉球に来て、帰りは強い北風が吹くまで、琉球に滞在しなければならない。その費用は、冊封を受けている琉球国がすべて負担しなければならない。その人数5~600人にものぼる】 

 そんな時代背景の中、接待役として、外交上の一端を担ったのが、辻村のジュリ(尾類)達なのだ。

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 ジュリ(尾類)とは、沖縄の方言で遊女のことです。その由来は、琉球国王の命を受けた王女や、王女の侍女や、役人の娘を遊女に仕立てた彼女達から始まった女たちの集団、(大奥のような)と言われている。その後、生活苦の為犠牲になって辻村に身売りする農村の小女が多くなったと言う。

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 その辻村の世界をまとめたのが、獅子、ミルク(弥勒)神崇拝と、ムイメー制度と言われている。(ムイメーとは大奥のお局の様な教育・取り締まり役の女性)

 父に会えなくなった娘達が、ジュリ馬行列を計画して、旧1月廿日に、獅子舞とミルク神を先頭に、美しく着飾った芸妓達が馬首をかたどった板を、前帯に挟み、手綱を持って「ユイ、ユイ、ユイ、」とにぎやかに囃して街中を練り歩き、見物人にまぎれた父母に馬にも乗れる程裕福な暮らしが出來たと知らせたのが始まりと言われる。

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 王府の逼迫は、庶民にも影響、貧しさの中、親兄弟の犠牲になり、政治のぎせいとなって、辻に身売りされる子女が増え、彼女達は、この様な過酷な運命を受け入れながらも、歌舞音曲、料理、しつけ、言葉づかい、などの教養を身につけた、エリート集団なのです。通常遊女は、客の選り好みはできないが、辻村の遊女は、本土で言う、オイランくらすだから、客は選べる。

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 この由緒ある民族行事も那覇の婦人団体から、「男尊女卑」だ、とクレームをつけられ、1989年に中止され、2000年から再開され今日に至ります。

 この行事は、那覇市の、ハーリー祭り・大綱曳・の次ぐ三大祭りの一つだ、と言う人もいる。貴重な芸能祭り、末永く存続させたいものだ。