日本の食糧危機を救った、琉球の唐芋
唐芋は、1605年に野国総官が、中国の福州から持ち帰り、嘉手納町野国村で栽培されていたものでした。
(この銅像は嘉手納基地内にあったものです、現在も有るのか不明です)。
野国総管、とは人の名前では無く、管職を指します、野国村出身の総管と言う意味で、 本名は、徐筆基(じょひつき)と言うそうです。
唐芋のルーツをたどると、その原産地はメキシコに至り、コロンブスが持ち帰り、大航海時代のルートに乗って東洋に渡来したのが唐芋の伝来コースだそうです。
唐芋は高温多湿を好み、大風、台風にも強く、まさに琉球国に、うってつけの作物だったと言えます。
(この像は嘉手納道の駅サービスエルア内に有る像です)。
沖縄(琉球国)で栽培されていた、唐芋を、百数年後に薩摩藩が持ち帰った、唐芋で、1732年の享保の大飢饉で薩摩の被害の少ないのは唐芋の普及の為と知り、幕府に願い出て日本全土に普及を図り、以来、琉球の唐芋は(薩摩藩の芋)、「薩摩芋」と命名され、日本全土の食糧難を解決した。
こも芋は、紅芋の焼き芋です。
一方、琉球では、日本の国に編入される今日まで、唐芋(薩摩芋)の改良を重ね、紅芋(紫色の果肉)の薩摩芋や、
伊計島特産の「しようご芋」(オレンジ色の果肉)が作られています。
薩摩芋は出来るだけ皮ごと食べた方が胸やけしないようです。